この病院は、児童精神障害者のための専門医療施設である。児童・思春期精神疾患や、自閉症などの発達障害、摂食障害や不登校といった心因性精神障害など、さまざまな障害を持つ幼児から思春期までの児童を対象として診療を行っている。
年表によれば、前身の青山脳病院松原分院が、1945年に都立松沢病院の分院(126床)として東京都に移管され、52年に都立梅ヶ丘病院として独立したのをその嚆矢とする。この間、大戦末期に戦災で施設の大半を焼失し、病床規模が70床に減じたが、復興が始まると時を合わせ、48年に初めての児童患者(M君・15才)の受け入れが記録されている。その後、施設整備が進むにしたがって、58年には定床300に増床、児童入院患者の比率も高まって40%以上を占めるに至った。以降、70年のピーク時には定床363床を数える規模に成長している。この当時までは、全院的に見れば、成人患者と混在しした病院であった。その後成人患者の転院が進み、名実ともに児童の専門病院となったのは1972年のことである。現在では病床規模274床で運営されており、わが国の児童精神医療の先駆的、中心的な役割を果たしている。
わが事務所が都立梅ヶ丘病院との関わりを持ったのは1966年のことであった。東京都からの委託で、都が策定していた基本構想に基づいて「梅ヶ丘病院改築マスタープラン」の作成と第一段階の病棟改築の設計に着手した。翌67年には早くも西1・2病棟(思春期-男子・女子)の完成を見た。これを手始めとして、70年までの間にサービス棟(給食・洗濯施設等)、東5・6病棟(発達障害-男子・思春期-男子)および西3・4病棟(幼児-男女)が完成。71年に本館(外来・診療・管理棟)、72年には教育治療棟および看護婦宿舎の竣工という、昨今の財政事情では考えられない矢継ぎ早のテンポで進行した。これをもって第1段階の計画が完了したのである。当時、社内ではは既に先行していた松沢病院の増改築プロジェクトと同時進行で、大変忙しくかつ活気に溢れていたことを思い出す。
計画の第2段階は、約10年を経過した1981年に再開した。この間、病院側では「今後の病院のあり方」に関する検討が続けられ、情緒不安定児の治療指導や学齢患者への教育の問題など、新たな診療環境整備の必要性が結論づけられた。
その施設的対応として、1982年から83年にかけて基本計画・基本設計の見直しが行われた。東1~4病棟(思春期開放-男・女、感染症、発達障害-女子、思春期-女子)、体育館、都立青鳥養護学校の分教場などが完成を見たのは86年秋のことであった。これを以て前後約20年の長きにわたる一連の計画が一応の収斂を見たのである。
全体配置計画は、既存の病棟を使いながらの棟単位の建替えが前提であったため、既存配置に大きく左右される結果となった。運動や催しものなどの多目的広場を中心とし、人や物品の通行や搬送と設備供給のルートとなるループ状の渡り廊下を配し、各棟が接続するパビリオン型が基本形となっている。敷地全体の緑豊かなそのたたずまいは、その後さらに十数年を経た現在でも変わっていない。陽春のある日、何かのついでに数年ぶりに付近を訪れる機会があったが、事務所のコーラスグループ「九官鳥」が、子供達に下手なコーラスを聞かせて喜ばれた二昔も前のことを想い出し、また、周辺の都市化に比して当時と変わらないしっとりした「おもむき」を感じて懐かしくもあり嬉しくもあった。
余談になるが、前身の青山脳病院松原分院は、焼失した青山の地から、斉藤茂吉の手によって1926年に再建さられたものだが、私の記憶に違いがなければ、一時期、この地が北杜夫(斉藤宗吉)の「楡家の人々」すなわち、父の茂吉、母の輝子(無類の海外旅行好き)、兄の茂太(日本精神病院協会名誉会長・エッセイスト他)、叔父の西洋(梅ヶ丘病院初代院長)たち斉藤家ゆかりの人たちの生活の舞台であった。当時のことは知る由もないのだが、何故か私には、その当時の牧歌的な情景が彷彿とする。
いま、都立梅ヶ丘病院は、東京都が策定した都立病院改革マスタープラン(21世紀の新しい都立病院の創造)をもとに、2008年の開設を目途とした「都立小児総合医療センター」の構想によって、清瀬小児病院、八王子小児病院との統合新設計画の渦中に置かれている。五十有余年の歴史に幕を閉じるのであろうか。この計画を否む訳ではないが、現存する病院全ての建築に携わってきたわが事務所にとっては寂寥の感を禁じ得ないのである。
網代友衛
(2002発行 社外報Vol.6より抜粋)
東京都世田谷区